2016年3月29日火曜日

史料 その九  幕府、石清水領讃岐本山荘地頭足立遠親を罷め、同職を宮寺に附す、

本山庄と立木工助遠親

大日本史料第五編之十を紐解くと、768頁に、
嘉禎二年(1236年)七月二十五日、「幕府、石清水領讃岐本山荘地頭足立遠親を罷め、同職を宮寺に附す、」との記載があり、769頁まで、関係史料が掲載されている、その内、769頁に、讃岐国本山庄という記述が見受けられる。以下、冒頭頁と当該頁、二葉を掲載する。亦、古事類苑地部29讃岐国にも、同様の記述が見られるので、ご紹介申し上げる。
加えて、典拠となった吾妻鏡の当該箇所を引用する。

   廿四日 己卯 南都騒動之間、在京人、并近國之
   輩催具一族、可抽警衛忠之旨、被仰下先訖一類不
   相從之由、近日自諸家、依其訴出來、向後大番以下、
   如此役、早可相從一門家督之旨、今日重被定之圖
   書左衛門尉、爲奉行、今日御移徙事、亦有其沙汰
   廿五日 庚辰 石清水領、讃岐國本山庄、被止足
   立木工助遠親知行地頭職、一圓被付宮寺 云云
     八月大
   三日 丁亥霽 戌刻、於新御所、被行鎮御祈大歳
   神、泰貞朝臣、宅鎮晴賢大土公、晴茂、大將軍、宣賢、王相、國繼、井靈、廣賢
   廐鎮道氏、七十二星、西岳眞人鎮、忠尚朝臣、於里亭、勤
   行之後、持參鎮物之處、以伊賀六郎右衛門尉、被仰

吾妻鏡には、慶長十年(1605年)官版活字本(全26冊)、慶長十年(1605年)富春堂活字本(全51冊)、寛永三年(1626年)整版本(全25冊)、寛文元年(1661年)整版本(全25冊)、寛文八年(1668年)仮名本(全52冊)等の古版本が知られている。本ブログへの紹介にあたっては、比較的保存状態の良い、寛文元年、野田庄右衛門が板行した「新刊吾妻鏡」を、テキストとして採用した。
合掌。

大日本史料第五編之十

大日本史料第五編之十

古事類苑地部29讃岐国

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡





補遺
寛文元年整版本新刊吾妻鏡の巻第三十二十一丁右頁に、足立木工助の名が記載されていることに気が付いた。以下、参考に供する。
合掌。


四十一番 信濃民部大夫  同三郎左衛門
   肥後四郎左衛門尉
四十二番 壹岐小三郎   足立木工助
   壹岐三郎左衛門尉
四十三番 佐原太郎左衛門尉 下総十郎
   伊賀次郎左衛門尉
四十四番 千葉八郎     相馬左衛門尉
   大須賀左衛門次郎
四十五番内藤七郎左衛門尉、押垂三郎左衛門尉
   春日部左衛門尉
四十六番 近江四郎左衛門尉 豐前大炊助
   加治八郎左衛門尉

2016年3月25日金曜日

史料 その八  天野遠景、款状を執権北条義時に致して恩賞を望む

本山庄と天野民部烝遠景

大日本史料第四編之九を紐解くと、711頁に、承元一年(1207年)六月二日、「天野遠景、款状を執権北条義時に致して恩賞を望む」との記載があり、717頁まで、関係史料が掲載されている、その内、716頁に、讃州本山庄之内五分三という記述が見受けられる。
以下、冒頭頁と当該頁、二葉を掲載する。
合掌。

大日本史料第四編之九

大日本史料第四編之九


付記
山口県文書館が1967年に刊行した萩藩閥閲録第二巻を紐解くと、巻73中に、天野求馬の項がある。そこに、天野遠景のことが記されていた。
合掌。


天野民部烝(遠景


始藤内 内舎人 左兵衛尉(左衛門尉)
後入道蓮景 従五位下 天野冠者

遠景、後三条院第三之皇子輔仁親王之男従一位有仁親王、少将基仁、子則遠景也、居住於伊豆天野圧、號稱天野、後足立養子、而譲地頭職等、故改足立稱號、文治二年十二月十日源頼朝卿鎮西九之奉行也


遠景所領之分
豆州天野庄狩野庄内牧郷、州本山庄之内五分三
州蒲形、武州多摩郡吉富、越後州加地庄 巳上地頭職 
豆州、参州飯 巳上公文 
州小野田郷 巳上惣公文職 
武州足立郡 己上領主
同州大畑名 已上地主職

右之内元譲与之分有之


貞應元年十二(七)月廿七日死

萩藩閥閲録第二巻

萩藩閥閲録第二巻


追記
天野遠景の墓と記した文章があることに気が付いた。
以下、添付する。
合掌。
菊池正美著「著長岡温泉案内」

菊池正美著「著長岡温泉案内」

菊池正美著「著長岡温泉案内」

2016年3月23日水曜日

史料 その七  香川県神社誌 三豊郡本山村

香川県神職会が1938年に刊行した香川県神社誌下巻の366-377頁に、高良神社の記述がある。
合掌。

香川県神社誌 下巻 (香川県神職会 1938年刊)

史料 その六  西讃府志 三野郡本山郷寺家村

明治三十一年、那珂多度同志会が翻刻刊行した「西讃府志」236頁上段に、高良社に関する記述がある。
合掌。


三野郡本山郷寺家村 神祠

高良大明神

祭神 武内大臣
祭祀 八月十七日
社地 四反四畝
神田 六石六斗
社僧 持寳院
祠官 瀧本近江
神子 一人


西讃府志 那珂多度同志会 1898年刊

史料 その五  七寳山威徳院由来

七寳山威徳院由来は、高良社の別当寺を勤めた本山寺、或いは、詫間の寳壽院神宮寺の生駒藩政期の人々の交流を伝える貴重な史料である。昭和十四年刊行の香川叢書第一巻からの引用である。
合掌。

香川叢書第一巻

香川叢書第一巻

史料 その四  七寳山本山寺縁起

昭和十四年刊行の香川叢書第一巻に収録されている七寳山本山寺縁起を、ご紹介申し上げる。当寺は、高良社の別当を務めていた寺院であった。
合掌。

香川叢書第一巻

香川叢書第一巻

香川叢書第一巻

2016年3月15日火曜日

史料 その三  生駒家から社領を給された社の一覧 (給知高順)

「生駒家家臣分限ノ記」に記された寺社領の項に依れば、讃岐の内外併せて、四十七の社のみが、生駒家より社領を給されている。以下、讃岐国内、讃岐国外、給知高順に、社の名を掲載する。
高良社(本山大明神)は、讃岐国内で選ばれた四十三社の内、十番目の知行を給されていることが分かる。
合掌。
 

讃岐国内の社

五十石 一之宮領 <一宮田村定水大明神>
三十五石 水主宮領
三十石 引田八幡領 <譽田神社>
二十七石 瀧之宮領 <牛頭天王>
二十三石五斗 金毘羅領
二十石 白鳥八幡領
十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
六石四斗三升 河部八幡領
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
四石七斗 神田宮 <大水上神社>
四石五斗 北条天王領 <崇徳天皇社>
四石 下吉田宮領 <八幡宮>
三石七斗六升 木太天王領 <牛頭天王>
三石七斗四升 由佐八幡領 <冠纓宮>
三石六斗 津田浦宮領 <石清水神社>
三石三斗 仁保宮領 <賀茂大明神>
三石 松縄宮領 <熊野権現>
三石 下高瀬八幡
三石 楠井明神領 <新田大明神>
三石 笠岡宮領 <宇賀大明神>
二石七斗三升 財田上八幡領 <鉾八幡宮>
二石六斗四升 岡田八幡 <上野八幡宮>
二石六斗 財田上龍王領
二石四斗二升 植田八幡領 <藤尾八幡宮>
二石二斗 飯田宮領 <飯田八幡宮>
二石 宇足津弁財天
一石五斗四升 入野八幡領 <石清水八幡社>
一石五斗四升 財田西天神領
一石五斗 池田八幡領
一石五斗 大日領 <春日大明神>
一石四斗三升 奥河津宮領 <庄宮八幡宮>
一石四斗 財田上厳嶋之宮
一石二斗 本濱天神領 <中黒華下天満宮>
一石二斗 中分宮領 <會下天満宮>
一石 楠井権現領
九斗 山田宮領 <山田八幡宮>
八斗 柞原権現 <素盞大明神>
五斗五升 東片本八幡領



讃岐国外の社

二百五十石 伊勢領 <伊勢、伊勢神宮>
百二十石 愛宕領 <山城、愛宕権現>
百石 八幡領 <不詳>
百石 多賀領 <江州、多賀大明神>




付記

十六石一斗三升 石清尾太夫 <友安氏>
十六石 柞原宮領 <山北八幡宮>
七石 林宮領 <岩田八幡宮>
六石六斗 本山大明神 <高良大明神>
六石五斗 宇足津宮 <宇夫志奈大明神>
六石四斗三升 河部八幡領
六石一斗六升 香西八幡 <藤尾八幡宮>
六石 井戸宮 <和爾賀波神社>
四石七斗 神田宮 <大水上神社>

上記のように、十六石から、一気に七石に飛ぶ。亦、五石も存在しない。六石の微妙な調整の中で、高良社が筆頭に位置している事実を尊びたい。
亦、十六石の調整にも注目したい。高松城、丸亀城の鎮守に、一斗三升の差を付けている。斯様に、数値は、何事かを語ってくれる。
分限帳(給人帳・侍帳・分限ノ記)分析の重要性を指摘したい。
合掌。



引用文献 

生駒家家臣分限ノ記、校訂者補遺、デ-タベ-ス編 (上坂氏顕彰会史料出版部 1998年刊行)

2016年3月14日月曜日

史料 その二  生駒藩政期の三野郡本山郷

高良社がご鎮座する三野郡本山郷の生駒氏在国時代の様態を、下記の二著を用い、グラフと表計算データにて、表示する。生駒宗家の直轄地(蔵入地)や高松城郭内に屋舗を持った上級家臣の知行所が多いことに気付く。斯様に佳き土地柄に、高良の社は、ご鎮座されているのである。
合掌。


讃州三野郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代

讃州御国中村切高惣帳  表計算篇


引用文献

讃州三野郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代 (上坂氏顕彰会史料出版部 2001年刊行)
讃州御国中村切高惣帳  表計算篇 (上坂氏顕彰会史料出版部 2000年刊行)



参考史料

生駒時代高松城下屋敷図 郭内篇 (上坂氏研究史料集成第13巻  上坂氏顕彰会史料出版部 1990年刊行)

本山郷に知行所を持つ、生駒左門、下津平左衛門、戸波武左衛門、山内七右衛門、高木孫兵衞、佐久間十郎右衛門、前田刑部の高松城郭内に於ける屋敷を、赤のクレヨンで囲み、明示した。
西浜に屋敷を持つ高井半十郎、平塚清八、林又左衛門に関しては、後日、屋敷地の確定を試みてみたい。
合掌。

史料 その一  生駒藩政期の寺社知行

生駒家家臣分限ノ記に収録されている生駒藩政期の寺社知行を、以下、ご紹介申し上げる。
合掌。


社と寺の双方に、別途、地方知行が給されていた三件の事例。

六石六斗                    本山大明神<高良大明神>
一石五斗四升              持寳院<本山寺>
十六石一斗三升      石清尾太夫<友安氏>
八石                           石清尾宮坊<宝寿院>
二十三石五斗              金毘羅領
三百六石五斗              松尾領






引用文献

生駒家家臣分限ノ記、五種の生駒家侍帳に於ける記載の異同 (上坂氏顕彰会史料出版部 1998年刊行)



付記

大日領(春日大明神)、まんだらじ(曼陀羅寺)、誕生院(善通寺)、下吉田宮領(八幡宮)を併せ、上記事例と同様ではないかとの主張がなされるかもしれないが、この善通寺に関しては、今少し、考察を試みてから、結論を出したいと思う。
合掌。


四十石 けんぎょう與 、寳壽院神宮寺である。この寺は、明治維新の混乱期に廃寺となっている。詳細は、以下のURLを参照いただきたい。
合掌。

寳壽院神宮寺
http://kanonji.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html

ブログ開設にあたって




神仏習合時の生駒氏襲封期の讃岐国、三野郡本山郷の本山大明神(高良大明神)、持寳院(本山寺)では、明確に社寺が区分され、社と寺の双方に、別途、地方知行が給されていた。このような事例は、この讃岐では、三例しかない。
この特筆して然るべき高良の社のことが、昨年の九月以来、僕の脳裏から離れない。心から尊崇いたして止まない所以である。
合掌。



引用文献

理想日本リプリント第85巻 金毘羅参詣名所図会 (上坂氏顕彰会史料出版部 2001年刊行)